さいたまウエスト

郊外のひかりを求めて

散策

川越城 本丸御殿

投稿日:

Last Updated on 2020年12月16日 by 管理人

初雁公園の隣に 「 どん 」と鎮座する本丸御殿は 川越の象徴でもあります。
江戸の北の守りとして川越は無くてはならない存在でした。
小学生の頃、親戚の叔父さんに初めて連れてきてもらってから
何度もここを訪れておりますが、玄関を入ると 石高十七万石 を誇った川越藩の迫力とプライドをひしひしと感じます。

幼少の頃は、城と言ったら天守閣が当たり前だと思っていましたが少しずつ状況を知ることにより、その素晴らしさは心に響きますね。上記の写真は、2010年に撮影した工事中の時のものです。

 

鎌倉時代~関東動乱の始まり

川越は関東平野のほぼ中央に位置し律令時代には武蔵国入間郡の役所である
「入間郡衙」(いるまぐんか) が置かれたとされ、その西側を武蔵国府と都を結ぶ「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしじ)が通り交通の要衝でした。
平安時代末には桓武平氏(かんぶへいし)の流れをくむ秩父氏の一族が土着し、
「河越氏」として鎌倉時代を通して幕府の重臣として活躍しました。

鎌倉幕府が崩壊し室町幕府が置かれると、関東は鎌倉府が治めましたが、
長官にあたる鎌倉公方(かまくらくぼう)とその補佐役の「関東管領」を中心に幕府の出先機関として機能しました。ところが、足利将軍家の一門である鎌倉公方は幕府に反抗するようになり、関東を独自に支配するようになりました。一方、関東管領は将軍から任命され、幕府と密接な関係にあったため鎌倉公方と関東管領はしばしば対立し、時には戦乱にまで発展しました。

関東管領は将軍の執事であった上杉氏が継承するようになりましたが、
上杉氏も宗家である山内家(やまのうち)と宗家筋の扇谷家(おおぎがやつ)などが
それぞれに力を持ち、鎌倉府内で勢力を競いあっていました。

やがて、鎌倉公方と関東管領の対立は激化し、永享10年(1438)に起こった「永享の乱」では、幕府の援軍を得た関東管領軍が鎌倉公方足利持氏を滅ぼしてしまいました。
しかし、政情の不安定な関東の統治には鎌倉公方の存在が必要とされたため、
宝徳元年(1449)幕府は持氏の子、成氏(しげうじ)を鎌倉公方に起用し、
再び鎌倉公方を中心とする関東の統治がはじまりました。

これを契機に、鎌倉公方と山内·扇谷両上杉氏による
関東一円を舞台にした戦乱の時代が幕を開けました。

川越城の歴史

川越城は、扇谷上杉持朝(おおぎがやつ うえすぎ もちとも)が

長禄元年(1457)に太田道真(資清) 道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。

当時、持朝は山内上杉房顕(やまのうち うえすぎ ふさあき)と連合し、古河公刃足利成氏(こがくぼうあしかがとしなり)と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していました築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。

小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落としました。

天文15年(1546)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏、古河公方と共に、
川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)後北条氏は北武蔵への支配を固めていきました。

天正18年(1590)、 豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、
その後も幕府の有力な大名たちが川越に配置されました。

寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、
本丸·二ノ丸·三ノ丸·追手曲輪·新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる
総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模をもつ巨大な城郭になりました。

 

本丸御殿の歴史

江戸時代初期の川越城の姿は、17世紀後半に制作されたと考えられ
『江戸図屏風』に垣間見ることができます。
屏風には川越城として、本丸と二の丸が堀で区画された2つの郭として描かれて
います。川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、
本丸御殿は将軍のための 「御成御殿」であったと考えられます。

元禄15年(1702)に写された『武州河越蓹領分明細記』には、
「二之丸御屋形」とあるため、城主御殿は二ノ丸に置かれ、本丸に関する記述がな
いことから、本丸の御殿は解体されていたと考えられます。

江戸時代末の弘化3年(1846), ーノ丸御殿が火災で焼失してしまいました。
そこで、蓹殿を再建することになりましたが、当時空き地になって
いた本丸が用地に選ばれ、嘉永元年(1848)、新たに本丸に御殿が建てられました。

こちらが、現存している本丸御殿そのものになります。
新しい本丸御殿は建物の数16棟、1,025坪にも及ぶ広大な建物で、
城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣たちが常駐する部屋なども
設けられており、文字通り城の中心となる建物でした。

 

みどころ

①玄関
巨大な唐破風屋根に間口3間の広い開口部と角の太い柱が、
石高17万石の大名御殿にふさわしい威容を感じさせます。

②広間
36畳の広さを誇る蓹殿内で2番目に大きかった
で、来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考え
られます城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。

③廊下
座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。
玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ、
南側から西側の広間西側部分にはツガ·マツが使われています。
これは、御殿内の公的空間と私的空間を区別して材種を変えたためと考えられます。

④書院の痕跡
現在の本丸御殿の南側には「大書院」と呼ばれた巨大な建物が建っていました
書院は明治初期に解体されてしまいましたが、本丸御殿南端の柱群には書院の部材力
入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っています。

⑤大廊下
創建当初の家老詰所は広間西側から西に延びる廊下の先にありました。
庭に埋め込まれた瓦は、大廊の柱の位置を示しています。

⑥明治棟
この建物は明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、
明治初期に建てられたものと考えられます。本丸御殿が人間県庁や入間郡公会所
として利用されたため、その付属施設として使用され1た可能性があります。

平成20年度の修理に伴う解体によって、「大書院」など同時期に解体された本丸御殿、
1の部材の一部が天井裏に転用されていることが確認され、
古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。

⑦家老詰所
本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物です。
江戸時代、藩主は参勤交代があり、実質的には家老が藩政を行っていました。
この建物は明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築され,
ていましたが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在のところに移築されました。

⑧便所
本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。
多くは建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に
設置されたものもありました。

⑨中ノ口
正面玄関に比べて間口2間半の一回り小さな規模の玄関です。
屋根は当初千鳥破風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和42年の修理の際につくられました。
当初は北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。
建具について甲良家本江戸城図などによると、一般的に座敷の建具は「襖」であり、
廊下に面した部分は「障子」が立てられていたようです。
杉戸は廊下の間仕切りとして使われていたと考えられ、現在本丸御殿内にある
杉尸も同様に御殿内の廊下に使われていたと推測することができます。

明治以降の本丸御殿

明治になると、城としての役目を終え、本丸蓹殿をはじめとする
多くの建物は移築·解体されました。明治4年(1871)、廃藩置県により川越県に続いて入間県ができると、川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されることになりました。

また、この頃「広間」の南西側に建物が増築されましたが、
これは南側にあった「大書院」などの部材を再利用して建てられたものと考えられます。
入間県はすぐに態谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転。

本丸御殿は「入間郡公会所」として利用され、
大正7年(1918)「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になりました。
昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になり、戦後は

市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎·屋内運動場として使われ、

その後は再び武道場になります。

昭和42年(1967)には、大規模な修理工事を実施し、
屋根の修理や間取りの復元を行い、現在のような公開施設になりました。

貴重な手記

貴重な手記が、小江戸物語 第二号に記載されております。
全文を掲載出来ませんが、当時の状況として
とても貴重な回想録だと思いましたので、ここに一部を記載します。

小仙波町 金子 延(かねこ のぶ)さん( 92才) ※当時

大正11年の4月から11年間、連雀町で建具屋を営む実家から、紙巻きたばこの
「曾」「敷島」作りに専売局淀橋専売支局川越分工場(本丸御殿)へ通われたそうです。

最盛期には女工さんが500人以上いて、10代から50代の方が従事されていたそうです。
また、工場内に食堂あって、手打ちの天ぷらうどんや煮豆が美味しかったそうです。

関東大震災も、工場であった本丸御殿で被災されたそうで
仲間が機械を揺るがしていると思ったら壁が崩れたそうです。
工場が復旧するまで1か月半閉鎖になり仕事ができなかったとのこと。

詳細は、小江戸物語 第二号をご参照ください。
※2002年4月5日刊行

本丸御殿の見学について

○開館時間
午前9時から午後5時まで
ただし入館は午後4時30分まで
○休館日
月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)
年末年始(12月29日から1月3日まで)
館内整理日(毎月第4金曜日、ただし祝日は除く)
○入館料
一般100円(80円)、大学生·高校生50円(40円)
( )は20人以上の団体料金

川越城本丸御殿
問い合わせ先:川越市立博物館
〒350-0053
埼玉県川越郭町2丁目13番地1
電話049-222-5399, FAX 049-222-5396

http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/

※本件における参考資料

参考資料:川越市博物館刊行 「 川越城が知りたい! 」

-散策

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

関連記事

川越 「 時の鐘 」歴史散策

  川越・小江戸のシンボル的存在として「時の鐘」があります。鐘楼は現在で5代目、鐘は13代目に当たるそうです。別の名を鐘撞き堂とも呼ばれ、ゆるキャラ、「 ときもちゃん 」のモチーフにもなって …

川越大師 喜多院の歴史にせまる

川越の喜多院はあまりにも有名な寺で、たくさんの文化財の宝庫でもあります。 丁寧に見学すると恐らく、1日では見切れないボリュームと、何度も通いたくなってしまうのも魅力の一つです。1月3日に毎年行われる「 …

保岡勝也と川越4部作 洋風建築を訪ねて

川越を散策していると蔵造りの街並みに突然洋館や、洋風建築に出会います。 明治、大正、昭和時代の建物がそのまま残されていたり、現在も使用されている現役の建物が多く街の景観に融合していてとても素敵なのです …

埼玉県西部のおススメを配信しています

「歩く」「食べる」「見る」の
おススメスポットを配信しています。