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川越城|本丸御殿の歴史にせまる 時代背景と移り変わりを見てみる

投稿日:2020年12月16日 更新日:

Last Updated on 2022年11月19日 by 管理人

川越の象徴ともいえる「本丸御殿」は、初雁公園の隣に「どん」と鎮座している。 
江戸時代、北の守りとして川越城は重要な存在でした。

重厚な玄関をくぐると「石高十七万石」を誇った
川越藩の迫力や空気感、プライドまでが伝わってきます。

上の写真は、2010年に撮影した工事中の時のもの。

本丸御殿とは

川越城はたびたび将軍の鷹狩などで「御成り」の記録があり、
本丸御殿は将軍のための 「御成御殿」の役割を果たしました。

元禄15年(1702年)に写された『武州河越蓹領分明細記』には、
本丸に関する記述がないことからその当時、本丸御殿は
存在していません。

江戸時代末の弘化3年(1846年) ーノ丸御殿が火災で「本丸御殿」は焼失します。
そこで、本丸御殿は「再建」されることになりました。
嘉永元年(1848年)新たに本丸に御殿が建てられ復活。
現存している建物は、当時をそのままを残しているのです。

川越城の歴史にせまる

そもそも川越城は、いつの時代に誰が建立したのでしょうか。

長禄元年(1457年)
扇谷上杉持朝(おおぎがやつ うえすぎ もちとも)が
に太田道真(資清) 道灌(資長)父子ら、
家臣たちに命じて築城させた城といわれています。

当時、持朝は山内上杉房顕(やまのうち うえすぎ ふさあき)と連合し、
古河公刃足利成氏(こが くぼう あしかが としなり)と、
北武蔵の覇権をめぐって攻防をくりかえしてました。
築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。

天文6年(1537年)後北条氏は、小田原を拠点に
武蔵への進出のため、川越城を攻め落としました。

天文15年(1546年)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏、
古河公方と共に、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗。
これを、川越合戦といいます。

天正18年(1590年) 豊臣秀吉の関東攻略に際し、
川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。

同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、
江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置きます。
幕府の有力な大名たちが川越に配置されました。

寛永16年(1639年)川越城主となった松平信綱は
川越城の拡張整備を行いました、
本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪です。

川越城は、3つの櫓や13の門からなる
総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの巨大な城郭になったのです。

川越城が築城された歴史的背景とは?

鎌倉時代は「関東動乱」のはじまり。

川越は関東平野のほぼ中央に位置し、律令時代には武蔵国入間郡の役所である
「入間郡衙」(いるまぐんか) が置かれたとされています。

西側を武蔵国府と都を結ぶ街道「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしじ)が
通って川越は交通の要衝でもありました。

平安時代末には、秩父氏の一族が土着し「河越氏」として
鎌倉時代を通して幕府の重臣として活躍。

のちに、鎌倉幕府が崩壊して室町幕府が置かれたとき長官にあたる
鎌倉公方(かまくらくぼう)と補佐役の「関東管領」が中心に
幕府の出先機関として機能します。

ところが、足利将軍家の一門である鎌倉公方は幕府に反抗するようになり
関東を独自に支配。関東管領は将軍から任命され、
幕府と密接な関係にあったため鎌倉公方と関東管領は
しばしば対立し、時には戦乱にまで発展してしまうのです。

関東管領は将軍の執事であった、上杉氏が継承。
上杉氏も宗家である山内家(やまのうち)と宗家筋の扇谷家(おおぎがやつ)などが
それぞれに力を持ち、鎌倉府内で勢力を競い合ってました。

やがて、鎌倉公方と関東管領の対立は激化。
永享10年(1438)に起こった「永享の乱」では、
幕府の援軍を得た関東管領軍が鎌倉公方足利持氏を滅ぼしたのです。

そこで、政情の不安定な関東の統治には鎌倉公方の存在が必要とされたため、
宝徳元年(1449)幕府は持氏の子、成氏(しげうじ)を鎌倉公方に起用して
再び鎌倉公方を中心とする関東の統治がはじまりました。

これをきっかけに、鎌倉公方(かまくらくぼう)と
山内・扇谷、両上・杉氏による関東一円を舞台にした戦乱の時代が幕をあけます。

本丸御殿の見どころとは?

(1)玄関
巨大な唐破風屋根に間口3間の広い開口部と角の太い柱が、
石高17万石の大名御殿にふさわしい威容を感じさせます。

 

(2)広間
この広間は、来客が城主の「お出まし」までの間、待機部屋と考えられます。
36畳の広さを誇る、蓹殿内で2番目に大きな部屋ですが、
実際に城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。

 

(3)廊下
座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。
玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ。
南側から西側の広間西側部分にはツガ·マツが使われています。
御殿内の公的空間と私的空間を区別して材種を変えたためと考えられます。

(4)書院の痕跡
現在の本丸御殿の南側には「大書院」と呼ばれた巨大な建物が建っていました。
書院は明治初期に解体されてしまいましたが、本丸御殿南端の柱群には
書院の部材力入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っています。

(5)大廊下
創建当初の家老詰所は広間西側から西に延びる廊下の先にありました。
庭に埋め込まれた瓦は、大廊の柱の位置を示しています。

(6)明治棟
この建物は明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、
明治初期に建てられたものと考えられます。

本丸御殿が人間県庁や入間郡公会所として利用されたため、
付属施設として使用され1た可能性があります。

平成20年度の修理に伴う解体によって「大書院」など同じ時期に解体された本丸御殿ですが、
1の部材の一部が天井裏に転用されていることが確認されています。
古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。

(7)家老詰所
本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物です。
江戸時代、藩主は参勤交代があり、実質的には家老が藩政を行っていました。

この建物は明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されましたが、
昭和62年に川越市に寄贈され現在の場所に移築されました。

(8)便所
本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。
多くは建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に設置されたものもありました。

(9)中ノ口
正面玄関に比べて間口2間半の一回り小さな規模の玄関です。
屋根は当初千鳥破風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和42年の修理の際につくられました。

当初、北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。
建具について「甲良家本江戸城図」などによると、一般的に座敷の建具は「襖」であり、
廊下に面した部分は「障子」が立てられていたようです。

杉戸は廊下の間仕切りとして使われていたと考えられますが、
廊下にも使われたと言われています。

明治以降の本丸御殿

明治になると、城としての役目を終え、
本丸蓹殿をはじめとする多くの建物は移築·解体されました。

明治4年(1871年)、廃藩置県により川越県に続いて入間県ができると、
川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分は庁舎として使用されました。

また、この頃「広間」の南西側に建物が増築されましたが、
これは南側にあった「大書院」などの部材を再利用して建てられたものと推測。
入間県はすぐに態谷県へ。さらには、埼玉県と変わったため県庁機能は移転したのです。

本丸御殿は「入間郡公会所」として利用され、
大正7年(1918)「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になりました。
昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になり、戦後は

市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎·屋内運動場として使われ、
その後、再び武道場になります。

昭和42年(1967)には、大規模な修理工事を実施し、
屋根の修理や間取りの復元を行い、現在のような公開施設になりました。

貴重な手記

貴重な手記が、小江戸物語 第二号に記載されております。
当時の状況を伝えるためにも貴重な回想録ですので、
全文を掲載出来ませんが一部記載します。

小仙波町 金子 延(かねこ のぶ)さん( 92才) ※当時

大正11年の4月から11年間、連雀町で建具屋を営む実家から、
紙巻きたばこの「曾」「敷島」作りに
専売局淀橋専売支局川越分工場(本丸御殿)へ通われたそうです。

最盛期には女工さんが500人以上いて、10代から50代の方が従事。
工場内には食堂もあり、天ぷらや手打ちうどん、煮豆が美味しかったそうです。

関東大震災も、工場であった本丸御殿で被災。
地震が発生したとき、仲間が機械を揺るがしていると思ったら、
その間に壁が崩れたそうです。

工場が復旧するまで1か月半閉鎖になり仕事ができなかったとのこと。

出典:小江戸物語 第二号
※2002年4月5日刊行

本丸御殿の見学について

○開館時間
午前9時から午後5時まで
ただし入館は午後4時30分まで
○休館日
月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)
年末年始(12月29日から1月3日まで)
館内整理日(毎月第4金曜日、ただし祝日は除く)
○入館料
一般100円(80円)、大学生·高校生50円(40円)
( )は20人以上の団体料金

川越城本丸御殿
問い合わせ先:川越市立博物館
〒350-0053
埼玉県川越郭町2丁目13番地1
電話049-222-5399, FAX 049-222-5396

http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/

※本件における参考資料

参考資料:川越市博物館刊行 「川越城が知りたい!」

-散策

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