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川越大師 喜多院の歴史にせまる

投稿日:2019年2月17日 更新日:

Last Updated on 2020年12月16日 by 管理人

川越の喜多院はあまりにも有名な寺で、たくさんの文化財の宝庫でもあります。
丁寧に見学すると恐らく、1日では見切れないボリュームと、何度も通いたくなってしまうのも魅力の一つです。1月3日に毎年行われる「初大師・だるま市」は有名で参拝する者たちで埋めつくされるほどです。

春は、満開の桜が楽しめますし、秋は紅葉の紅葉で景観を楽しむことが出来ます。
喜多院の歴史はとても古くて、創建されたのは、平安時代までさかのぼると言われています。

喜多院の歴史に迫る

時は平安時代、天長七年(八三〇)慈覚大師円仁が最初とされるが、「新記」の河越領小仙波村の項に、東照宮の別当喜多院として、次のような記載が残っているのだとか。

天台宗で正式には星野山(せいやさん)無量寿寺という。近世になって僧正位の寺格と定められた。
この寺は遠い昔,仙芳仙人が住んでいた地である。仙芳仙人とは、おそらく神通力を得た神仙であったのであろう。

天長七年、淳和帝の勅願によって慈覚大師円仁がこの古跡を開闢して堂塔坊舎を建てたが、功成った時、無量寿寺の勅号を賜わったという。慈覚大師円仁は俗姓壬生氏。下野の人だが十五歳で比叡山に登り、伝教大師最澄(さいちょう)に師事して天台の教えを学んだ。

平安時代 承和(じょうわ)五年(八三八)入唐し全雅について梵学、密教を学び、翌年帰朝しようとしたが逆風に遭って帰れず、そこで五台山を始め諸刹を歴訪し、のち長安に至って元政,義真、法全らについて両部の大法を伝授された。また宗叡について天台宗を学び、九年後に漸く帰朝することが出きた。

翌年、内供奉十禅師となり、斉衡(さいこう)元年(八五四)天台座主となった。
唐院、文珠堂、横川中堂、法華惣持院などを開創して、師最澄の遺志の大成に努めた

「新記」は大師の没年を貞観十三年(八七一)としているが、ほかに貞観六年説が多い。
喜多院は、慈覚大師没後三百七十余年、鎌倉時代、元久(げんきゅう)( 1204~06)のころ兵火にあって堂塔伽藍ことごとく烏有に帰し、その後九十余年荒廃していた。

鎌倉時代、永仁四年(一二九六)再び勅によって尊海僧正が、再建のため下って来たが、
野の杉の大樹から明星が光明を放つのを見て、山号を星野山(せいやさん)としたという。
その後、次第に数多の坊中が甍を並べ、再び仏法繁栄の地となって法燈の絶えることもなかったが、天文六年(一五三七)北条氏綱と河越城のとの戦いで寺院堂宇は灰燼に帰した。
以来、五十二年の間、荒廃のまま星霜は流れた。

だが天正十六年(一五八八(安土桃山時代))に南光坊天海(てんかい)がこの院に住み、
再興の時の来るのを待ち望んでいたところ、同十八年、徳川家康が関東へ入国した。
さっそく天海は家康に拝謁し、その帰依を得ることとなった。
そこで家康が天海に「関東で天台の古跡はどこか」と問うと、天海は「仙波無量寿寺こそ」と答える。
慶長十七年(一六一二(安土桃山時代))家康は河越付近に遊猟に来たとき、星野山に立ち寄り、寺の荒廃をなげき、手ずから縄張りし、堂舎建立のために酒井備後守忠利を作事奉行にして、天長の古様に復活させることを命じ、寺領五百石を付与した。このため喜多院草創の祖は仙芳仙人、開山は慈覚大師円仁、再建は尊海僧正、そして中興は天海僧正(慈眼大師)ということになっている。

だが、寛永十五年(一六三八(江戸時代))の川越の大火によって再び類焼、
そこで三代将軍家光の援助によって、江戸城内の建物を新河岸川を利用して移築し、
ことにその書院は江戸城内の紅葉山(現・皇居)別殿を移したものといわれており
私もずっと疑問に思っていたのですが、川越喜多院に、家光誕生の間や
春日局(かすがのつぼね)化粧の間があるのはそのためなのである。

そうして喜多院はようやく再建。山号を”東の叡山“という意から東叡山と称した。
広い境内を埋める巨木の茂りいこに観光客を含めて市民の憩いの気持を味わう場所であると思います。

天海僧正について

ここで喜多院の中興の祖といわれる天海僧正について述べよう。
彼は戦国末期の、それこそ弱肉強食の”力こそ正義なり、という時代に、
武には全く目もくれずひたすら真理の追求に徹した。
その結果、真実こそ人間の至上のものであり、ゆるぎない根幹であると悟ったのであろう。そのために彼は、人間の手で作った政治機構や社会構造の頂点に立つ為政者や社会構造の頂点に立つ為政者や権力者たちに対し、非と認めれば歯に衣を着せず苦言を呈し、直言した。そのため家康の信任も厚く、彼の発一言が幕府にも大きな影響を与えた。
天海の政治への係わり方は、天台教学の布教にこそあれ、権力指向ではなかったようだ。彼の眼は常に公平で、内裏(だいり)の経済的困窮を見れば、将軍に対して直一言もした。また、罪人の減刑歎願をし、幾人もの罪人を救っている。重罰では世の中はよくならないと考えたのでもあろう。

彼と双璧をなした崇伝(すうでん)の場合は全くその逆で、キリスト教禁制伴天連追放(バテレン)、方広寺の鐘銘問題、豊臣の残党狩り、沢庵(たくあん)和尚の処分問題など政治に積極的に介入した。
その崇伝と天海を比較すると、天海の寛容な人間性がよくうかがわれよう。

元和二年(一六一六)家康が死去すると、その遺体は駿州久能山に葬ら
れ、東照大権現の勅額が与えられた。祭祀儀式については天海と崇伝と
の間に意見の対立があったが、天海の主張通り、「山王一実神道」によ
葬儀が行なわれることになった。翌年、久能山から日光に改葬する時、
天海はこれに扈従(こしよう)して、霊柩を大堂に駐めて、
喜多院で三月二十三日から二十六日までの三日間、供養の行事を執行した。
この関係から、寛永十年( 一六三三)境内に東照宮が完成するのである

寛永の大火後の喜多院

しかし、この川越東照宮も寛永十五年の大火によって灰燼に帰した。
『星野山御建立記』には「町通り、城内家三百軒ほど焼き払い仙波塔堂など残らず焼失、
喜多院慈恵堂(じえどう)焼上、東照宮までみな焼き払い中院,南院、広仙坊、仙境坊門前まで一宇残らず焼失」といった記事が見える。先にも触れたが、家光は天海を慈父のように慕っており、すぐさま川越城主堀田加賀守正盛に命じて復興にかかり江戸城紅葉山(現在の皇居)の別殿を移築して客殿書院,庫裡に当てた。家光誕生の問や春日局(かすがのつぼね)の間があるのはそのためである。
その他慈恵堂(じえどう)、経堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社なども相次いで再建した。二層の多宝塔は、このとき酒井忠勝が寄進したものである。
従って、現存する建物で寛永十五年以前のものは正門と鐘楼だけということになる。
これよりさき家光は、老齢の天海の身を案じて、現在の東京·上野の地を下賜し、ここに東叡山寛永寺を建てて天海を住まわせた。その天海も寛永二十年に卒し、慶安元年(一六四八)四月十二日、勅をもって慈眼大師と諡された。
正保二年(一六四五)に建立された慈眼堂には、晩年の天海像が安置されている。
寛文元年(一六六一)時の住僧周海の請いによって、河越城主松平伊豆守信綱は御宮祭田二百石を贈賜し、慶長年間下賜の田と合わせて七百石となった

(別に旧領五十石もあるが、これは御朱印領のほかである)なお、昔は北院、中院、南院の三院があり、同じ山号を称して優劣はなかったが、天海僧正以来、喜多院(北院) の勢力が大いに上がり、中·南院はさながら喜多院の支院のような形になった。

-散策

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